訪問介護は、超高齢社会の中で今後ますます需要が高まる分野です。一方で、現場では人手不足や報酬改定への不安、経営者の高齢化といった課題が山積しています。こうした中、訪問介護業界では「事業承継」や「M&A(合併・買収)」によって事業を次の世代につなぐ動きが広がっています。M&Aは、経営者にとっては後継者問題の解決や経営安定化の手段であり、買い手にとっては訪問介護事業へのスムーズな参入機会でもあります。
本コラムでは、訪問介護業界におけるM&Aのメリット・デメリット、そして顧客や従業員にとっての影響について解説します。
訪問介護市場は、2019年以降6年連続で事業所数が増加し、市場規模も拡大を続けています。背景には、単独の訪問介護事業所の新設だけでなく、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)や有料老人ホームへの併設型事業所の増加が挙げられます。こうした併設型の拡大により、地域内でのサービス供給体制は一見充実しているように見えますが、競争も激化しています。
一方で、東京商工リサーチの調査によると、2024年の介護事業者の倒産件数は過去最多の172件に達し、2年連続で過去最多を更新しました。そのうち訪問介護事業者の倒産は81件と、全体の約半数を占める規模にまで拡大しています。主な要因としては、2024年度介護報酬改定における基本報酬のマイナス改定、そして人件費・物価高騰によるコスト負担の増加が挙げられます。さらに、採用難による稼働率の低下も経営を圧迫しており、2025年度上半期だけでも倒産件数はすでに過去最多を更新。年間で100件を超える可能性も指摘されています。
こうした状況から、訪問介護業界は「事業所数の増加=市場の安定成長」とは言い切れず、供給過多と経営難が同時に進む二極化の局面を迎えているといえます。
訪問介護業界では、慢性的な人手不足が経営を圧迫する大きな要因となっています。介護職員の有効求人倍率は全職種平均を大きく上回り、特に訪問介護では「一人あたりの担当件数が多い」「移動時間が長い」といった特性から離職率も高い傾向があります。
また、求人広告や人材紹介会社への依存度が高まり、採用コストの上昇が中小事業所にとって大きな負担となっています。十分な人材を確保できないまま稼働率が低下し、結果的に赤字化するケースも少なくありません。
2024年度の介護報酬改定では、訪問介護の基本報酬が引き下げられ、経営に与える影響が大きくなっています。これにより、事業所は「効率的なサービス提供体制」や「加算の取得」による補填を迫られています。
また、国は今後、軽度者への生活援助サービスを自治体事業に移行するなど、制度の見直しを検討しており、訪問介護の提供範囲や報酬体系が変化する可能性もあります。こうした不透明な制度環境の中で、単独事業所では対応が難しく、他事業との連携やM&Aによる規模拡大を模索する動きが加速しています。
参考:東京商工リサーチ
訪問介護業界におけるM&A(事業譲渡・株式譲渡など)には、売手側にとって多くのメリットがあります。主な利点として以下の点が挙げられます。
中小企業では経営者の高齢化が進んでおり、訪問介護事業者も例外ではありません。「後を継ぐ人がいない」「事業を畳むしかない」と悩む経営者が増える中で、M&Aによって第三者へ事業を引き継ぐことが、後継者問題の有効な解決策となっています。廃業によって利用者や職員に迷惑をかけることなく、事業の存続と地域貢献を両立できる点が大きな魅力です。
介護業界では中小規模の法人が多く、経営基盤が脆弱な事業所も少なくありません。一方で、買収側となるのは多くの場合、財務体質が安定した中堅〜大手企業です。
そのためM&Aによって経営母体が変わることで、従業員の雇用が守られ、労働環境の改善やキャリア形成の機会が広がるケースもあります。特に大手企業の傘下に入る場合、教育体制や福利厚生の拡充が期待できることから、従業員にとっても安心材料となります。
中小事業者のM&Aでは、多くが株式譲渡によって行われます。オーナー経営者は保有株式の全部または一部を売却することで、株式譲渡益(売却益)を得ることができます。未上場企業の株式は通常、現金化する機会がほとんどありません。しかし、M&Aを通じて創業時より高い企業価値で譲渡できれば、まとまった資金を得ることが可能です。その資金を老後の生活資金や新たな投資に充てるケースも少なくありません。
M&Aで株式を譲渡した後も、旧オーナーが取締役や顧問などの立場で一定期間経営に関与するケースがあります。経営の自由度は以前より制限されますが、資金繰りや採用に苦労することなく、安定した基盤のもとで事業を継続できる点は大きな利点です。大手企業のノウハウ・システムを活用しながら、より質の高い介護サービスの提供に専念できる環境が整います。
M&Aにより経営を譲渡すると、旧オーナーは日々の資金繰りから解放されます。企業としても、親会社の資本力を背景に、新たな介護関連事業や周辺領域への展開を検討できるようになります。また、オーナー個人としても株式売却で得た資金をもとに、別事業の立ち上げや地域貢献活動への投資など、第二のキャリアに挑戦する道が開けます。
中小企業では、経営者個人が借入金やリース契約に対して個人保証や担保提供を行っているケースが一般的です。しかしM&Aにより経営権が譲渡されると、債務の保証人は新たな経営母体に切り替わることが多く、旧オーナーは個人保証や担保義務から解放されます。
特に買収先が上場企業や大手法人である場合、こうした保証の解除がスムーズに進むことが多く、経営者個人のリスク軽減につながります。
訪問介護業界でのM&Aについて、買い手のメリットは下記があげられます。
新規で訪問介護事業を立ち上げる場合、許認可の取得、スタッフの採用、利用者の獲得など、多くの準備と時間が必要です。さらに、計画通りに立ち上げが進むとは限らず、軌道に乗るまでに多くのリスクを伴います。その点、既存の訪問介護事業者をM&Aで買収すれば、すでに運営体制が整った状態で事業参入が可能です。
訪問介護事業の運営には、介護福祉士や実務者研修修了者といった有資格者の確保が不可欠です。しかし、介護業界全体で人材不足が深刻化しており、新規参入時に必要な人材を集めるのは容易ではありません。M&Aによって既存事業者を引き継ぐことで、すでに働いている有資格者をそのまま確保でき、安定的な事業運営が可能になります。
すでに介護施設やデイサービスを展開している法人が訪問介護事業を取得するケースも増えています。訪問介護を取り込むことで、在宅支援までをカバーする包括的な介護サービスを提供でき、顧客の多様なニーズに対応できます。また、事業領域の拡大によって収益の安定化・相互送客によるシナジー効果も期待できます。
新規事業では、利用者数が安定するまでの間、赤字期間が発生することが一般的です。しかし、すでに黒字経営をしている事業者を買収すれば、そのリスクを大幅に軽減できます。事業の早期安定化という観点では、M&Aの方が費用対効果が高いケースも多く見られます。
大手企業が訪問介護事業を取得する場合、企業のブランドや信用力が人材採用の面で大きな強みとなります。中小事業者が多い業界において「安定した企業で働きたい」という志向の職員は多く、結果として採用効率の向上が期待できます。また、安定した雇用環境を提供できる点は、離職率の低下にもつながりやすいといえます。
訪問介護事業のM&Aは、経営の安定化や新規参入の近道として注目されていますが、当然ながらリスクやデメリットも存在します。
譲渡先が大手企業や中堅法人の場合、ガバナンス体制や報告体制が厳格になるケースが多く見られます。その結果、現場職員は日々の介護業務に加えて、書類作成・報告業務など社内向けの事務作業が増える可能性もあります。
こうした変化は組織の透明性向上にはつながりますが、現場負担の増加にもなり得ます。そのため、経営統合にあたっては職員への丁寧な説明と、業務プロセスの見直しが欠かせません。
M&Aは、訪問介護事業へのスムーズな市場参入を可能にする一方で、初期投資額が大きくなりやすいという側面があります。ゼロから新規事業を立ち上げるよりも、既存事業を買収する場合には「のれん代」や「既存の契約・人材価値」などが価格に上乗せされるため、買収金額が割高になるケースもあります。
特に、好調な業績を維持している黒字事業者を買収する場合は高値になりやすく、資金繰りや投資回収の見通しを慎重に見極めることが求められます。
M&Aは「契約がゴール」ではなく、買収後の経営統合(PMI:Post Merger Integration)が成否を左右します。どれほど収益性の高い企業でも、組織文化やマネジメント手法の違いを軽視すると、離職増加やサービス品質の低下を招くリスクがあります。特に訪問介護事業は、現場スタッフの力に支えられる業態です。新しい経営方針が浸透しないまま現場に混乱が生じると、モチベーション低下や離職につながるおそれがあります。
訪問介護事業のM&Aは、経営者だけでなく「顧客」や「従業員」にとっても大きなメリットをもたらします。
訪問介護事業者の多くは中小規模で運営されており、人手不足や運営体制の脆弱さから、「サービスの質が安定しない」「希望する時間帯に訪問が受けにくい」といった不満が生じやすい傾向があります。
しかし、M&Aによって新たな運営母体のもとに入ることで、経営体制や人材配置が見直され、サービス提供体制の安定化が進むケースがあります。譲渡先が必ずしも大手でなくても、資金力や運営ノウハウを持つ法人であれば、より効率的な運営や職員教育の充実が可能になり、結果的に顧客満足度の向上につながります。
訪問介護業界では、中小事業者が多く、給与やキャリアパスの面で課題を抱えることも少なくありません。M&Aにより、より経営基盤のしっかりした法人の傘下に入ることで、待遇や職場環境が改善される可能性があります。
また、経営の安定によって事業継続の安心感が高まり、従業員が「将来への不安を感じずに働ける」環境が整うことも大きなメリットです。同時に、異なる法人との連携を通じて新しい働き方や教育機会が得られるなど、スキルアップのチャンスにもつながります。
M&Aは「事業を手放す」だけでなく、「大切に育ててきた事業を未来につなぐ」ための手段でもあります。ここでは、訪問介護事業の売却を検討する経営者が意識しておくべき3つのポイントをお伝えします。
訪問介護は、人材と信頼関係で成り立つ事業です。譲渡にあたっては、従業員の雇用条件や働き方、利用者へのサービス提供体制が途切れないよう、丁寧な引き継ぎが求められます。特に管理者やサービス提供責任者といった中核人材が不安を抱えないよう、早期に情報共有を行うことが重要です。
M&Aでは、財務状況や運営体制など「見える化」された情報が評価を左右します。日頃から経営データを整理し、稼働率や職員定着率の改善など、事業の安定性を示せるよう準備しておくことがポイントです。また、介護報酬改定や制度変更への対応状況も、買い手にとって重要な判断材料となります。
訪問介護事業のM&Aは、介護保険指定の継承や人員配置基準など、専門知識を要する手続きが多いのが特徴です。そのため、医療・介護分野に精通したM&A仲介会社や専門家に早めに相談することで、最適な譲渡スキームの検討や買い手選定がスムーズに進みます。早期の相談は、希望条件に沿った交渉や譲渡時期の調整にもつながります。
訪問介護業界は、需要が高まる一方で、制度改正や人材確保など、経営環境の変化に直面しています。その中で、M&Aは単なる「売却」や「買収」ではなく、事業の存続と発展を両立させるための有効な選択肢といえます。経営者にとっては、従業員の雇用を守り、利用者へのサービスを継続するための戦略的な手段にもなります。今後、業界再編が進む中で、自社にとって最適なタイミングと方法でM&Aを検討することが、持続的な経営の鍵となるでしょう。
訪問介護事業のM&Aを検討する際は、メリットだけでなくデメリットやリスクも十分に把握した上で、慎重に判断することが重要です。
大阪府東大阪市出身。関西の大学を卒業後、ホームページの訪問販売会社に3年間従事。その後CBグループに入社し、医療・介護福祉事業を中心としたM&Aに携わっている。これまでに手がけた案件は、住宅型有料老人ホーム、介護付き有料老人ホーム、グループホーム、デイサービス、訪問介護、訪問看護、など多岐にわたり、事業承継の支援に幅広く取り組んでいる。
